第96回:南部英麿(なんぶひでまろ)

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広報ID1009624  更新日 平成30年12月12日 印刷 

南部英麿(1856年~1910年)

早稲田大学創立貢献者

南部英麿(なんぶひでまろ)の写真

南部英麿は1856年(安政3年)9月11日、盛岡にて第40代南部家当主南部利剛の次男として生まれた。兄の利恭は第41代南部家当主に、弟の信方は支藩の七戸藩藩主となっている。
幼いころより英邁の誉れの高かった英麿は、1870年(明治3年)、数えで15歳の時に姉の夫である華頂宮博經親王(かちょうのみやひろつねしんのう)に従い渡米した。現地の私立中学をへてダートマス大学に入学、のちにはプリンストン大学に移り、天文学を修めて学位を得た。1878年(明治11年)12月に帰国した英麿は、翌年大隈重信の娘クマ子と結婚、養子縁組を行い大隈姓を名乗る。当初は内務省地理局、外務省交信局に勤めるも、養父の重信とともに1881年(明治14年)に官を下り、翌年の東京専門学校(現:早稲田大学)創設の際には推されて校長に就任した。その後第二高等中学校教授、東京高等商業学校教諭などをへて、1896年(明治29年)には早稲田中学校校長となり、“去華就実”を校是として大いに中等教育の普及に努めた。1898年(明治31年)3月には岩手県第1区で衆議院議員に立候補し当選、3期議員を務めている。しかし1902年(明治35年)9月、とある事情で大隈家を離れた英麿は南部に復姓し、兄利恭に分家を申し出て自ら平民となった。その後は亡くなるまで、郷里で子弟の育英にあたった。
理工系の学問を修め、その普及に努めた英麿だったがなかなか思うようにはいかなかった。そのため1908年(明治41年)、早稲田大学に理工科が創設された際には非常に喜んだと言われている。

掲載日:平成20年9月25日

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