第71回:東次郎(ひがしじろう)
広報ID1009599 更新日 平成30年12月10日 印刷
東次郎(1835年~1912年)
盛岡県大参事
東次郎(幼名:継弥)は1835年(天保6年)9月17日、陸奥国三戸郡沖田面(おきたも)村(現:青森県三戸郡南部町)にて盛岡藩士東彦左衛門政博、かねの長男として生まれた。東家は南部第13世南部守行を祖に持ち、友人であり政敵でもあった楢山佐渡と同じ盛岡藩の高知(たかち)の家柄であった。
1852年(嘉永5年)、東は近司頭に、楢山は加判列に任命された。東18歳、楢山22歳の時である。このころから盛岡藩の政務は東と楢山が執り行うこととなる。しかし、ともに青年家老として藩政の刷新に務めた東と楢山だが、政権の相違によりいつしか政敵として対峙、家老職を交互に務めることとなった。幕末も押し迫った1868年(慶応4年)には、主席家老楢山が奥羽越列藩同盟への参加を決定、幽閉中であった東にできることはなく、盛岡藩は敗北する。その後東は、白石から盛岡への藩地の復帰、南部家と華頂宮家との婚礼、藩主南部利恭への廃藩置県の進言など、盛岡藩の敗戦処理を行った。1875年(明治8年)にはその卓見を買われ天津へ赴任、明治初期の対清外交の一翼を担っている。
東と楢山の政見は相容れなかったが、楢山は東を信頼していた。南部家の家令を勤めた向井長純は金子定一に対し、“楢山が死ぬとき後事は一切東次郎に托せよと遺言した”と語っている。
掲載日:平成19年9月10日
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