第77回:佐藤北江(さとうほっこう)

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広報ID1009605  更新日 平成30年12月12日 印刷 

佐藤北江(1868年~1914年)

新聞界に活躍した人・東京朝日新聞編集長

佐藤北江(さとうほっこう)の写真

佐藤北江(本名:真一)は1868年(明治元年)12月22日、盛岡大沢川原小路にて盛岡藩士佐藤貞吉、さめの長男として生まれた。北江が5歳の時に父定吉が亡くなったため、母と祖母から教育を受けた。
1873年(明治6年)、山本寛次郎らによって開設された「求我社」は後に自由民権運動家の巣窟となるが、当初は広く市民に開かれた書籍展覧場であった。向学に燃えていた北江は「求我社」に出入りし、生涯の友人となる三田村勇治(後の横川省三)、鈴木巌らと出会う。1884年(明治17年)12月には創刊されたばかりの「岩手新聞」記者となり、新聞人としてのキャリアをスタートさせた。1887年(明治20年)、求我社時代に培った人脈により東京の「めさまし新聞」に就職、のちに「東京朝日新聞」となる同紙の政治記者としてまたは編集長として活躍した。その北江の仕事ぶりは“二十七年間、一朝日新聞に拠って傍目も振らず、恪勤精励”とされ、また“編輯にかけては日本一”と評された名編集長であった。当時まだ無名だった石川啄木を校正係で採用し、その若い晩年を支えたことでも知られている。
幼いころの北江は体が弱かった。それを憂えた祖母が毎晩滋養強壮にと酒を飲ませたため、成人後は酒豪になってしまったというエピソードもある。

掲載日:平成19年12月10日

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