第89回:上田農夫(うえだのうふ)
広報ID1009617 更新日 平成30年12月12日 印刷
上田農夫(1848年~1895年)
自由民権運動家・岩手県会議長
上田農夫は1848年(嘉永元年)5月30日、岩手郡東中野村馬場小路(現:盛岡市馬場町)にて盛岡藩士上田長治の次男として生まれた。元々勇馬という幼名だったが、父長治がその乱暴ぶりを心配し、勇の字をとって馬太郎と変えている。
1873年(明治6年)、書籍閲覧所として求我社が創設され、農夫も発起人に名をつらねる。のちに同社は岩手県の自由民権運動の拠点となり、農夫もその中心として鵜飼節郎、坂本安孝らと行動を共にした。1879年(明治12年)5月には太政官より布告された「府県会規則」による通常議会が開催され、農夫は互選により議長に選ばれる。以降8期10余年にわたって議長を務めており、鈴木巌はその才腕を“われらの知り得る限りにおいて、わが岩手県会にはかつて氏ほどの名議長なく”と評している。また「産馬会社」事務長として本県の産馬事業の振興や、私立共立学校(現:盛岡白百合学園高等学校)の設立など、産業や教育の分野でも活躍した。
1871年(明治4年)11月、中央政府から盛岡県に島惟精が県令として派遣される。この時に馬太郎から農夫に名を改めるが、これは、東北を「白河以北一山百文」と評し、地方を軽視する薩長政府に対する反骨意識の現れではないかと息子の十郎は語っている。
掲載日:平成20年6月10日
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