第61回:横川省三(よこかわしょうぞう)

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広報ID1009589  更新日 平成30年12月10日 印刷 

横川省三(1865年~1904年)

自由民権運動家・朝日新聞記者

横川省三(よこかわしょうぞう)の写真

横川省三は1865年(元治2年)4月4日、盛岡下小路(現:盛岡市愛宕町)にて盛岡藩士三田村勝衛、クニの次男として生まれた。1884年(明治17年)に東和賀郡十二鏑村(じゅうにかぶらむら)(現:花巻市東和町)の横川佳哉と結婚したのちも、山田勇治、横川勇治といくつかの名を名乗るが、1901年(明治34年)に横川省三と改名した。
横川の生涯をたどると、敗戦を余儀なくされた盛岡藩士たちの明治という時代に対する衝動が感じられる。
盛岡の求我社で自由民権運動に共鳴した横川は、結婚した年の7月に上京、運動家が屯(たむろ)する「有一館」に出入りする。そこで知り合った小林篤太郎らが起こした加波山(かばさん)事件のため、1年8ヶ月間投獄された。このため横川も政府に危険人物とみなされ、1887年(明治20年)12月、保安条例により伊東圭介とともに皇居三里以内から追放された。ちなみにその範囲には東京23区のほとんどが含まれる。
その後、郷里で自由民権運動家として活躍、再び上京したのちには新聞記者、北米での農業経営、ハワイ移民斡旋業などの職を手がけたが、1901年(明治34年)、清国公使内田康哉(うちだこうさい)の求めに応じ中国へ向かった。そこで日露戦争における特別任務班第六班班長となり、1904年(明治37年)4月21日、満州ハルピンにて処刑された。
横川は獄中で読んだ『荘子』に、“日に三度己を省みる”の言葉を見つけた。その時に自身も反省が必要だと痛感、のちに省三と改名するにいたる。

掲載日:平成19年4月10日

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